suki-kirai 1

好きなもの。

 

片付いた部屋とか、ちゃんとした人間でいられる実感。喫茶店のホット珈琲。チーズ。小さくて柔らかいもの。裸足。天気のいい日に歩くこと。好きな人はたいていの瞬間好き。桃色の朝焼け。ひとりで落ち着いていられる場所、お風呂とか、人がいない電車とか。誰とも会話しなくてもいいところ。銭湯、温泉。水に陽光が反射する景色。桂花陳酒。他人のやさしさ。カラッと性格がわるいひと。重みがあって適温のおふとん。寝ること。寝そべること。サーモン。比較的性格の良い考え方ができた時。窓の外の嵐。嵐を体感したあと入るお風呂。美術館、本屋、映画館。本当に怖いホラー映画。ばかばかしくて楽しいB級スプラッタ映画。おもしろい映画を観たあとの興奮。母親とおしゃべりすること。甘口白ワインと、サングリア。父方の祖父以外の家族みんな。アンディ。プレデターと、エイリアン・シリーズ。柔軟体操。涼しくて薄暗いところ。きれいな月の夜。コバルトブルーのタイルとか陶器。プルキニエ・タイム。いろんなノート。ミステリー小説。森茉莉のエッセイ。平穏な気分。チーズ。誰からも非難されなくていい時。誰かを尊敬できた時。昔の自分、未来のわたし。

 

嫌いなもの。

 

今の自分。迫力のあるクラシック音楽。安っぽい映画。雨のアスファルトのにおい。満員電車。父方の祖父。株やギャンブル、およびそれをする人たち。歩きたばこ。デブ。選民意識に満ち溢れた人たち。実力がないのに偉そうにする男。卑屈で愚痴っぽい男。生理的に受け付けない男。おばさんがしてるマットな口紅。わずらわしい他人。他人に怒りをおぼえる時間。慢性的吐き気と偏頭痛。薬が効くまで待つこと。まぶしい場所。乗り物酔い。たくさん人がいるところ。怒鳴る人。たばこの煙。深夜、外にいること。二次会。ごはんの時間。満腹になること。世の中の偉い人がわけのわからないことを言い出す瞬間。虫。怒ったサルとか、敵意のある生き物。罫線が大きいノート。ボールペンのインクがたまにでないこと。耐えがたい眠気があるのに眠れない状況。嫌いな人が近づいてきて、話しかけられるまでの永遠にも近いウンザリ。しつこい男。酔っぱらって気分がよさそうな男。楽しそうな男を見ると無性に腹が立つ。というようなことを言ってしまい女の子たちに心配されること。不要な干渉。要点がわからない仕事上のやりとり。憎悪がとまらないのにキリがないから考えないようにして諦める今みたいな虚しい瞬間。

ミステリーの10月

分別のある大人としては読書をしようと思いたち、ひと月にひとつざっくりとテーマをきめて、それに関連する本を3冊以上読もうという生活更生キャンペーンをはじめたよ。今月はミステリー。

 

火車宮部みゆき 9/27~10/2

カネの怖さと、女の悲しきエネルギーに恐れおののきながら、最後には美しいセンチメンタルが残る作品。思い返してみればところどころ予測がついてしまう感はあったものの、読んでいる最中はすごくひきこまれた。謎のスリリングさ、事件性というよりはむしろ犯人の女の持つ自分の人生を絶対に絶対に絶対に取り戻してやる、掴み取ってやる、そのためにはなんだってやってやる!という悲痛な決意に胸を打たれる。

 

②カーデュラ探偵社/ジャック・リッチー 10/3~10/8

河出文庫はやっぱ装丁のセンスあるな。という実感の元いそいそと購入した短編集。どれもユーモアたっぷりかつ素晴らしいスピード展開でこんなに短いのになんだこの目線をぐるりと変えられちゃう感じは。若い女にもおばあさんにも見える絵ってあるじゃない、ああいうのをじっと見てたら、ふとした瞬間に違う図が浮かび上がってアッと思うあの感じを体験できる作品がいっぱいあって夢中になれた。カーデュラ・シリーズは本当にすてきで、もっとたくさんシリーズがあればなあ!本好きの子供にすすめたい作品。

 

③その女アレックス/ピエール・ルメートル 10/9~10/13

最高。3章もので、1章ごとに「アレックス」の見え方がめまぐるしく変化していく。1章ではアレックスの体験した恐怖におびえ、なんでこんな素敵な女の人がこんな目に…と心が痛み、2章ではアレックスのまさかの行動にサイコなのか?と驚き、3章では彼女の真意を悟って静かに泣く。謎は陳腐ではない本当の謎で、何度も「なんでこんなことをしたんだろう?」「今のはどういう意味なの?」と本気で戸惑うが、それがじれったい人間味あふれる警部たちによって3章であきらかにされていく。ほんとうに良質なミステリーだった。正義は勝つ…といえるほどきれいごと然とはしていないけれど、ラストにちゃんと救いがあるのもいい。

 

海外作品ってなんとなく敬遠してたけどサイコ―。考えてみれば映画は洋画派っていうか邦画ってだけでウンザリしちゃってほとんど観る気なくすのに、なんで本は今まで日本派だったんだろ。これからは好き嫌いせず海外のも読んでみよ。

 

全然関係ないけど、最近サウスパークみてる。こないだシーズン1を観終わったんだけど、とりあえず「気分はどうだ?」って訊かれたとき友達と声を揃えて「サイテー」って言ってみたくてうずうずしてる。あとdude!って可愛い声で言いたい。4人いる少年の中で今のところカートマンが一番好き。ああいうホントお前サイテーだな!って言い切れる感じの人間に憧れてる。すでに本心はカートマンなので、この息をするように取り繕う癖をなくしたいものです。みんなもそうでしょ?

 

ひさしぶりだナ

本当にひさしぶりの投稿。やっぱ何するにも怠惰で飽き性なのでダメですね。

9月になってどうなったか。
最近はまってること、毎朝のホットコーヒー。
最近期待していること、ひとりぐらし。
最近悲しかったこと、喫茶店の店員がヤンキー。
最近楽しかったこと、映画を語る母。
最近辛かったこと、孤独。
最近腹が立ったこと、すべて。
最近はまってる妄想、シリアル•ママが全員殺す。

8月末にお芝居をした。最後のお芝居にしようと思ってた。でも、舞台裏でまっくらやみの中お話を思い返してるとき、誰よりも自分が今日を楽しんでることを実感して、最高にぎゅーってなって、やめるのやめた。お芝居してるとき、演出やお客さんの前にまず自己評価が低いとか自分が納得いかないとかいう壁にぶつかってずっと辛いし正解がわからなくて迷子だし練習場所遠いし毎日朝がくるし人生ってなんなの?ってなるけど、でも鴻池くんになるんだ。鴻池くんになる。

っていう決意もわたしの怠惰と飽き性という性質を前にしてどうなってしまうかわからない。世は無常だ…

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お仕事は普通で、準ストーカーも自称奴隷も彼方の席へと消えた。たまに電話口で怒り狂ってるけど、だいたいは平穏な心で過ごしてる。仕事関係の民間資格をとろうと思ってるけど時期的に半年先からになりそう。二年目になる前に個人的にやっておきたいことが山ほどあって、時間が足りないけど残業はしたくない。何もわからないままなんとなくやってた分野があって、今月はたくさん調べたりしたけどまだまだわかんない。そんなかんじ。特別楽しいわけではないけど、合ってんなーっておもう。

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近々行きたいところとやりたいこと。

六甲山牧場でひつじを触る。←絶対
晴れた日、スワンボートを漕ぐ。←絶対
京都で紅葉をみる。
紅葉のみえる温泉に行ってつかる。
プラネタリウム
プラネタリウムバー。
なだまんのランチ。

わたしの価値

自分の価値というものをふと考えてみたときに、別になにもない。価値があるから生きてるわけじゃない…というか生きてることに理由なんてないし、ただなんとなく生まれてなんとなく死にゆくのが生き物というものだ。そこに低俗な論理なんかない。

しかし生きてる価値ねえなーとひしひしと感じるというのはなかなかに辛い時もあって、このように人は宗教にはしるのかな?とボンヤリ思う。私が生きててよかったぜイェイイェイと明るく思えた日が一度だけある。自分の書いた脚本に他人が泣いていたとき、そしてその後わたしの手を離れてその物語が他人に語られていたとき。あの夜の、心の底から湧きあがる生の喜びは凄まじく、一回目の公演が終わってから楽屋でこっそり泣いた。私は他人の心を動かすことができた。生きていていいんだ、と思った。

芝居はふしぎだ。私は普段私の人生を生きている。本番の幕があがるまでは戦争で地獄だ。自分との闘いのオンパレードだ。やるべきことができない、やりたいことはさせてもらえない、よく失敗し、仲間は呆れ果て、世界でたったひとりになった孤独を感じる。生活リズムは狂い、誰も助けてくれないと泣き、いたらなかった点についてなじられるように感じ、誰のことも信頼できない。でも本番の幕が上がった瞬間、私は私の地獄からすくいあげられ、純粋な人生を生きることができる。舞台の段差が実生活から守ってくれる。仲間みんなを信頼し、あたたかい絆のなかでシナリオの上をたのしく生きる。その人生には意味があり、大切なものを示唆し、誰かに影響を与える。芝居は人生の理想の姿だ。価値のない私は芝居の中だけで価値のある人間になれた。

人生が辛いのは、芝居のように決まった結末がないからだと思う。自分の選択次第で大きくかわり、あの時こうしておけばなんて不毛な葛藤が生まれる。意味もない、価値もない。のんべんだらりと続いていく日々の中で、ごろごろしているうちに老いて死ぬ、それが現実の人生だ。どんな残酷なことも理不尽にふりかかり、そしてそれにはなんの意味もない。「ただ起こったから起こった」。意味なく私たちの人生は消費され、やがて消えて無になる。だけど私は、その枠のなかで精一杯もがく人間はやっぱり尊くて、まっとうに生きてまっとうに死ぬってのは、思ったより虚しくないんじゃないかなあ、なんてことも思う。この混沌とした毎日のなかで、ついつい「意味が…」「価値が…」なんて人生を整理してしまいたくなるけれど、どんな意味づけも世界のなんとなく具合に負ける。とにかく何も考えず、自分のやりたいことをやりたいだけ、がむしゃらにやっていくのがいいんでしょう。

今日は休戦記念日

男が嫌いで、心底気持ち悪いし死んでくれないかなーといつも思う。この問題は根深い。死んでくんないかなーなんて軽く思っているうちはいいのだけど、それがだんだんと身を焦がすような憎悪に発展し、お前が死なないのならわたしが死ぬ!いやなんでわたしが死にたくならなきゃいけないんだお前が死ね!というような激しい殺意に発展し、毎晩号泣しながらうめく毎日に突入していく。24時間365日というわけではない。普段は忘れている。でもちいさなきっかけがやってきた瞬間この憎悪はよみがえり、しばらくわたしの心を焼け野原にする。

人生22年間、わたしはたびたびこの憎悪と向き合わなくてはならなかった。男に見下されていると感じたとき。他の女を見下して笑っていたとき。男が偉そうに喋りかけてきたとき。しつこく連絡先をきかれたとき。告白されたとき。マイナスの行為のみならずプラスの行為に対しても果てしなく腹が立つ。告白されるというのも、わたしにとっては見下しだった。わたしなら了承するとでも思ったのかっていつも腹が立った。性的な目でみられていると思うとゾッとした。衝動で刺し殺したかった。彼らを罰したかった。

女は気持ちの悪い男がいれば嫌悪感を感じるものだろうとは思う。それは逆もしかりか。だけどこんなにも死にたくなるような切実な殺意をみんな持つのだろうか?わたしはいつもひとりで苦しんだ。わたしが殺意を抱く男たちにもしばしば恋人はいたし、女友達も豊富だった。憎しみを共有することはできなかった。わたしの過剰な憎悪は周りの女たちを驚かせ、宥めさせた。

一説では、男性嫌悪は男性自体ではなくみずからの女性性に対する嫌悪なのだという。たしかに男から告白されたり「女だからな」と見下されるというのは、自分が女であるということを強く意識させる。わたしは男になりたかった。女は弱い。

小さいころ、警察官の家に招かれたことがある。今思えば退職者だったのかもしれない。おじさんとおじいさんの間くらいの年だった。彼は私を「美少女だ」と言って、門のなかへ連れ込み、抱え上げてキスした。手帳を取り出して、「住所と名前を教えなさい」と言った。怖かった。その家の門には「警察関係者」「こども安全」のようなステッカーが貼られていたし、そのおじさんは毎朝門前を掃除していて、あいさつする仲だった。いいおじさん。近所のおじさん。高校生の娘がいる。門の裏の暗がりで、わたしは彼に屈した。家に帰れるのならなんだってよかった。はやく帰りたい。「かわいい女の子のお友達をおしえて。」再び屈した。9歳女児。それ以上は何もされなかったし、今でも彼がなぜそんなことをしたのか謎だ。友達のところにはその後実害があったのだろうか?怖すぎて確かめる気にはならなかった。わたしはこの時大人の男性に対する恐怖と嫌悪を獲得したのではないかと自分で思っているのだけど、この時感じたのは恐怖だけでなく、いやそれ以上に、弱い自分への嫌悪感だった。何もできない私。気持ち悪いおじさんの言いなりになるしかない私。友達を売る私。なんでも話す私。穢された私。死んだほうがいい私。美少女でなければわたしに価値はない。大学生のとき、自称アーティストのおじさんにパンチラ写真を撮られたり、美少女だねーって寄ってきたおじさんとふたりで遊びに行った。もう一度繰り返すことで向き合えるんじゃないかと思った。でもだめだった。わたしはモノのようにみられているんだなあ、とぼんやり思っただけだった。これから老けて、美少女なんていわれることもなくなるだろう。わたしは用済みの廃棄物。生きてる価値ない。自分でもそう思うし、男もそう思ってるんだろう。そう感じるから、たぶん私はこんなに切実にあいつらが嫌いなんだ。男にかわいいねっていわれると死にたくなる。

初恋のひとは性同一性障害だった。恋人にはなれなかったけれど、「きみは男性嫌悪だから。」と言って、ふたりで出かけるときは女の子らしい格好をしてくれた。「そんなんじゃないよ。」って笑ったけど、ほんとうは嬉しかった。きれいな彼と遊ぶのがとても好きだったし、彼が仲のいいひとと一緒にいて、男らしい口調で話しているのをみてると寂しかった。わたしは男と女のいいとこどりがしたくて彼をあんなに好きだったのかもしれないと思うと、悲しくって今でも涙がでてくる。生も性も汚いし愛なんてしょせんエゴで、なにもかも嘘に思える。どうして神様は男と女のふたつの属性をつくったんだろう?わたしはそのどちらも嫌いで、どちらにも踏み出せずにずっと立ち止まっている弱い女だ。強い人間になりたい。自分も他人も属性ではなく、精神の美しさが大切なんだ。男も女も関係ない。私が過去に男に屈しまくってきた弱い女だなんてことはもうこれからは関係ない。ただ、人間として、ただしく、きよく、真実に生きればいいんだよ。休戦しよう。今日は休戦記念日。自分をののしり他人を憎悪するのはやめよう。苦しかったよね、もういいんだよって、言ってあげたい。

 

みみのうしろをかいてやる。

今週のお題特別編「素敵な絵本」

 

中学生のとき、長崎の絵本美術館に行った。その時なんとなく手に取ったのがM・B・ゴフスタイン作「ブルッキーのひつじ」。シンプルでかわいい表紙に惹かれただけだったが、中を読んでみて感動、絵本なんて歳ではないのに即購入。

最近「大人の絵本」だなんていわれているけれど、絵本は絵本だし大人が絵本ばかり読んでいてはいけないと思う……ものの、これは子供は勿論大人にもおすすめしたい一冊。

ブルッキーちゃんという女の子と、彼女のかわいい子羊の話で、いや話というほど長くはない。この一人と一匹は言葉をかわして笑ったり、一緒に大冒険したりはしない。ただの女の子と、ただの子羊だ。だから彼女が歌を教えても本をよみきかせても、わかってあげられない。羊の言語はめえめえであって小難しい言葉はわからない。だけどこのブルッキーちゃんと羊はものすごく仲がよくて、ブルッキーちゃんは「めえめえ」ばっかりの歌の本をあげて一緒に遊んでいる。お互いの言ってることをわかってあげることはできない。でもただ一緒にいて、くっついてにこにこしている。うつくしい友情、うつくしい愛だと思う。人間は互いに多くを求めすぎる。言葉という道具に騙されていやしないか。言葉は一見みんなに共通するものだけれど、異なる体験を積み重ねて生きてきた人間が隅から隅まで意思や感情を伝え合うことなんて不可能だ。他人のバックグラウンドすべてを理解できない限り本当の気持ちはわからない。本人にだってわからないかもしれない。言葉のうえではわかっても上滑りしてますます距離を実感する。わかりあえないことが多すぎるのに、みんな言葉で通じあおうとして、挫折したらそれなりに怒りや寂しさを感じてしまう。あいつはわからんやつだよ、だれもわかってくれない、どうして伝わらないの?なんて。だけど無理矢理ぜんぶ分かり合う必要があるだろうか?このブルッキーちゃんと羊のように、ただお互いを想い、仲良しだよねってことは、小難しい言葉を並べなくたって近くでニコニコしていればわかる。ただ一緒にいて、おだやかにくっついて、たのしいふたりの遊びをやっていればいいんだ。

というわけで、そういうシンプルな愛のありかたがシンプルな線画と谷川俊太郎の訳で表現されたとっても胸に沁みる作品だよ。出産後のプレゼントにとってもオススメ。ちなみにゴフスタインはこの作品を旦那さんに捧げたらしい。

 

 

ブルッキーのひつじ

ブルッキーのひつじ

 

 

だれも得しない近況をつらつらと

怒涛のような日々が過ぎ、只今息き継ぎ中でござる。

えっと、小豆島に旅行にいってたんですが、なぜか夜行フェリーで行って朝小豆島着いて観光して夜帰るっていう謎の弾丸ツアーでして、もうクタクタ。小豆島自体はとても楽しかったし観光スポット巡れて大満足だったけどね!お猿の国がアツい。また行きたい。柵なくて大迫力だったし、人があまりいなくて管理人のおじさんがちょいちょい解説してくれたし。 で、昨日夜かえってきて、そっから東京行く友人のお別れ飲み会して、もうなんか切なくなっちゃって。その人とは大親友!ってほどじゃないし、二人で遊びに行くような間柄でもなくて、ただ二回お芝居を一緒にして、しかも二回ともお兄ちゃん役だった。なんか戦友っぽい思いいれを勝手にもってて、また一緒に芝居できるような気がしてたから、東京行ってたぶん戻ってこないってきいてショックで、うん。夜行フェリー全然眠れなかったしとてもしんどくて正直どうしよかと思ったんですが、これは行かな後悔すると思って、行って本当よかったよ。なんとなくで別れなくてよかった。 今日は同じく東京いく劇団員とごはん食べたんだけど、この人はたぶんまた会えるので今生の別れって感じではない。しつこく連絡をとっていくぞっ♡ で、さっきまで夏にやるお芝居の稽古だったんですが、なんか今日の稽古は本当に充実していた。みんなのごはんタイムに、わたし食べたとこだったからひたすらセリフ覚えてて、その後ストレッチ筋トレして他の役者さんとあわせながら覚えて、演出さんに役や作品について話してもらって。2点謎な部分、不安な部分があったんだけど、解決の糸口がみえてスッキリ。 今までは、役の気持ちや人柄を全面的に伝えるような(そうじゃないと成り立たない)芝居が多かったと思うんだけど、今回はそうじゃなくて、その部分の悩みも割り切り方がみえてきた感じ。でもこの話、みる人によってかなり後味が違ってくる...というか真剣に役作ったら苦しすぎるラストなんだけど、成功したらお客さんはあったかい気持ちになると思うっていうなんとも難しい...。いつも、ここはキャラがこういう状態だからお客さんにこんな気持ちになってほしい、っての込みでつくってたから、状態と気持ちが乖離するとどうにも混乱する。やりにくいとか嫌とかではなくて、ただ慣れないというか、ムズムズするー!役を作っていったら解消されるんだろうな。親不知みたい!



わたしたちはあしたをかえることができるか