神の棄てた裸体

という本を読みました。イスラームの国々での性を取材したもので、16篇から成る。つまり、16人の境遇について綴っている。性に関して厳格なイメージのあるイスラーム圏だが、その実態はカオスだ(性の実態なんて、どの国もそうかもしれないけど)。インドネシアジャカルタの13歳の少女売春婦エパ。軍人に拷問・強姦され逃げてきたスマトラ島のヌール。パキスタンで互いに男娼であることを隠しあう兄弟。迫害されながらも踊りに誇りをもつヒジュラたち。ヨルダンで銃声の幻聴に耐えかねて毎日男と寝るウワンダ。おおらかなレバノンの占い師ベア女史。マレーシアのレディーボーイ・アリス。工場のために、家族形態がおかしくなってしまったバングラデシュの村。一夫多妻制のクルド人の村の、幸せに満ち満ちた家族。ミャンマーで、妻と、強姦した日本兵の男との子供を育てた男。パキスタンで、息子や親戚のために娘を殺さざるをえなかった男。アフガニスタンで、名誉や家族のためには死ねなかった同性愛者の男ソルタン。インドで、騙されて不妊手術をされた売春婦アキ。過去に行った堕胎行為への苦悩から、不妊の女たちをきにかけるインドの薬師。バングラデシュで売春をする10歳のレジミー。自らも公園で暮らしながら、母親が死んでしまった赤ちゃんに出ないお乳を吸わせてあげようとする11歳のジャラカ。

 

この本を読んでいていちばん印象的に思ったのは、愛されたい子供たちのことだった。先進国で暮らしてると児童売春なんてとんでもないことだ!って問答無用で拒否反応をおこしてしまうけれど、この本では子供たちは積極的に大人に甘え、「体は好きにしていいから愛してくれ」と言わんばかりだった。たとえばジャカルタの少女売春婦エパは、恋人の大学生に避妊具をつけてくれと言って怒らせてしまい、石で殴られてしまう。日本なら訴訟ものだが、彼女は「彼に謝りたい、許してほしい」といい、ラストでは仲直りした恋人と笑いながら踊っている。バングラデシュのレジミーは、ベッドで性的接触をされて戸惑い「僕は君を助けられないんだよ」と背を向ける著者に「助けてほしくない。抱っこしてほしいの。抱っこしてほしいだけなの。どうしてそんなに嫌うの」と言い募る。また、成人した売春婦にも同じ問題を抱えているケースがあった。スマトラ島のヌールは拷問・強姦された過去や容姿から自分を好きになってくれる男性がいないであろうということに心を悩ませ、お金を取らずに男を誘う。

 

虐待と愛着障害について勉強したとき、つくづく性は難しい問題だと思ったことを思い出した。どうしても性的接触は愛情表現的な一面を持つみたいで、性的虐待を受けた子供も、なんとなく撫でられるところから入って徐々に本格的な性的虐待に移行していくと、ただ撫でられてたときの優しいな嬉しいなみたいな感覚が残ってるから、どうも自分もどこかで合意してたような気がしてきて罪悪感を持つケースがあるらしい。レジミーは性器に石を詰められたりしているにも関わらず、客は優しいという。どんなに嫌な客でも最後には抱っこしてくれるという。日本でヌクヌクと育ってる私なんかには、それは愛ちゃうんやでと指摘することは容易だけど…売春なんてよくないだとか、他の仕事を見つけろよとか、そんな無責任な言葉で彼女たちを突き放すことができない。

 

人間は愛なしでは辛くて辛くてとても生きていけない。親もおらず、帰る家もない彼女たちが、性的な目的で寄ってくる人間に縋ることの、なにが卑しいだろう。なにが恥ずかしいだろう。愛情を渇望する心をなじることのできる人なんかいるだろうか。彼女たちに軽蔑の眼差しを向けるのはあまりにも情がないのではないか。憎むべきはいつだって個々の人間ではなくそんな状況を生み出してしまった社会だ。わたしはとても無力で、彼女たちのために出来ることなんて何ひとつない。だけど、「月の谷の女」にでてきた西洋人のように、「恥ずかしいことするな」「自分をもって現実に立ち向かえ」なんて言い放つ人間にだけはなるまいと思う。彼女たちはきちんとひとりひとり人間だし、考えているし、気持ちもあるし、自尊心や葛藤だってあるのだ。そんな当たり前のことを、文化や境遇の違いを通せば簡単に忘れてしまう自分を戒めよう。

わたしたちはあしたをかえることができるか