わたしの価値

自分の価値というものをふと考えてみたときに、別になにもない。価値があるから生きてるわけじゃない…というか生きてることに理由なんてないし、ただなんとなく生まれてなんとなく死にゆくのが生き物というものだ。そこに低俗な論理なんかない。

しかし生きてる価値ねえなーとひしひしと感じるというのはなかなかに辛い時もあって、このように人は宗教にはしるのかな?とボンヤリ思う。私が生きててよかったぜイェイイェイと明るく思えた日が一度だけある。自分の書いた脚本に他人が泣いていたとき、そしてその後わたしの手を離れてその物語が他人に語られていたとき。あの夜の、心の底から湧きあがる生の喜びは凄まじく、一回目の公演が終わってから楽屋でこっそり泣いた。私は他人の心を動かすことができた。生きていていいんだ、と思った。

芝居はふしぎだ。私は普段私の人生を生きている。本番の幕があがるまでは戦争で地獄だ。自分との闘いのオンパレードだ。やるべきことができない、やりたいことはさせてもらえない、よく失敗し、仲間は呆れ果て、世界でたったひとりになった孤独を感じる。生活リズムは狂い、誰も助けてくれないと泣き、いたらなかった点についてなじられるように感じ、誰のことも信頼できない。でも本番の幕が上がった瞬間、私は私の地獄からすくいあげられ、純粋な人生を生きることができる。舞台の段差が実生活から守ってくれる。仲間みんなを信頼し、あたたかい絆のなかでシナリオの上をたのしく生きる。その人生には意味があり、大切なものを示唆し、誰かに影響を与える。芝居は人生の理想の姿だ。価値のない私は芝居の中だけで価値のある人間になれた。

人生が辛いのは、芝居のように決まった結末がないからだと思う。自分の選択次第で大きくかわり、あの時こうしておけばなんて不毛な葛藤が生まれる。意味もない、価値もない。のんべんだらりと続いていく日々の中で、ごろごろしているうちに老いて死ぬ、それが現実の人生だ。どんな残酷なことも理不尽にふりかかり、そしてそれにはなんの意味もない。「ただ起こったから起こった」。意味なく私たちの人生は消費され、やがて消えて無になる。だけど私は、その枠のなかで精一杯もがく人間はやっぱり尊くて、まっとうに生きてまっとうに死ぬってのは、思ったより虚しくないんじゃないかなあ、なんてことも思う。この混沌とした毎日のなかで、ついつい「意味が…」「価値が…」なんて人生を整理してしまいたくなるけれど、どんな意味づけも世界のなんとなく具合に負ける。とにかく何も考えず、自分のやりたいことをやりたいだけ、がむしゃらにやっていくのがいいんでしょう。

わたしたちはあしたをかえることができるか