メールってこわいネ

と、色々あって思いました。いや別にネガティブな事件が勃発したとかではないんだけど、人がどういう気持ちでその文章を打ったのか全くわからんので、どうもやきもきするというか。

会って話してたら、表情や仕草で、「あっ、今踏み込んじゃいけないとこいっちゃったな、やめよう」とか、「あっムッとしてる、なんとか軌道修正しなきゃ」とか、おもうわけじゃないですか。こういう風に文字にすると打算っぽくてアレなんだけど、それって必要な気遣いですよねきっと。人と人は必ず他人だし、それぞれ地雷埋まってるゾーン違うし、近づきすぎるとダメになるし。その距離感をはかるのって、言葉自体じゃたぶんできない。文章にしちゃったら、たとえば質問に答えるのでも、ちょっとイヤだなーって感じながら仕方なく答えてるのと、普通にハイハイって答えてるのとで大きく違いって出ない。だからメールで感情的なことを聞くのはとても怖い。疑心暗鬼になる。会ってしゃべっててもなるのに!

好きな作家・舞城王太郎さんの「我が家のトトロ」という小説に、はっとする文章がある。

”愛情を証明することはできない。僕たちは誰でも、誰かに愛情を持っているふりをすることができる。だから愛情は証明できない。”

その通りだ。…話が逸れた!

 

メールは電話にももちろん劣る。電話だとまだ、声色で相手の感情がある程度伝わる。まあ、こっちが喋ってる間電話線ばっかりくるくる、いやイマドキそれはないかもな。「つまんね~」とツイッターに投稿している可能性がある。でも電話だとまだ感情的な話をしてても伝わるし、地雷原にふみこんでいったら直接声で謝ることもできる。

メールのおぞましい所は、たとえ向こうのハラワタが煮えくり返っていようが泣き叫んでいようが、理性のかけらさえ残っていれば案外フツーの文章を打ち込むことができるとこだ。直接顔をみてウソがつけない人にだって楽勝だ。絵文字のニコニコマークやハートマークの裏に疑心暗鬼のブラックホールが広がっていく…愛情も感情も証明できないが、ある程度漏れ出るからこそなんとかして人間関わっていけると思っていたのに。ここはディストピアか。

 




わたしたちはあしたをかえることができるか