どうも好きになれないんです。

昨日、最後の集中講義が面白かったって書いたんだけど、すごく考えさせられたから忘れないうちに書いておきます。

書いてみたら小レポートか?って長さなので続きを読む機能を使ってみよう。現代美術好きなひとは気分を害する可能性があるので読まないほうがいいかもしれません。正直な気持ちを書きます。好きな人ごめんなさい。イヤしかし、いろんなひとがいるほうが面白いよねってピーナッツに書いてありましたよ!

 

現代美術って、ピンとこないものが多くないですか?例えば伝統的絵画や彫刻であれば、パッとみて美しさに感動したり、迫力に圧倒されたり、有名な物語のシーンを切り取ったものであれば各人物の状況や表情に感情移入したり…その作品内で起こっていることに対して色々感じたり考えたりするわけじゃないですか。でも現代美術って、作品を語るときにこっち側の現実世界のなにかがくっついてくることが多いですよね。現実ではこれこれこういう問題がおこっており、それに対して作者は云々…そしてこの作品内のこれこれはこれを示唆しており云々…いや面白いと感じることも多々ありますよ。現実について考えさせられもする。でも作品そのものに感動しますかあ?って感想がまずあって、常々「現代美術よくわかんない」、「あれは美術なのか?」って思っていました。会田誠さんとても好きなんだけど、それは彼の作品が私の中で「美しい」からであって、だから同じようなサブカル的とらえられ方をされてる村上隆さんは嫌いで、それは彼の作品は私の中で「美しくない」からで。とにかく芸術美術というのなら美しくないと、どれだけ社会問題を示唆したってそんなのドキュメンタリー映画撮ったら?ってなるわけで。いや村上隆さんの論理にはほおー!ってなるし頭よさそうだなあと思うけど、美術といわれるとン?ってなるしベルサイユ宮殿にだって飾るべきじゃないとおもう。

 

で、なんでこんなことになったのかって話を美術評論家グリーンバーグさんに重きをおきながら先生が解説してくれたんだけど、それがめちゃくちゃ面白くて。

当時の伝統的美術を打ち破る動きはマネさんからで、彼がそれまで重視されていた主題なんかより構図や色彩の美しさがあるやん?ってはだかんぼのランチや娼婦の絵を描き始めたことでモダニズムが始まり、そっからキュビスムやアメリカ抽象表現主義もでてきて、まあそれはいいんですが、その後がとっても面白いんですよ。権威的な評論家となったグリーンバーグ先生は「ポスト・ペインタリー・アブストラクション(今までのアクション・ペインティングがぎっちりと描きこんでいたのに対し、隙間がでてくる。また、色彩も薄く、流すように塗る)」が次にくるぞ!と自ら展覧会を企画してしまう。それまで評論家は美術家が生み出した作品を語っていたのに、彼は自ら歴史をつくろうとし、実際彼に続く作家はたくさんいた。

 

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☝サム・フランシス「ブルー・ボールズ」

  「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の作品のひとつ。とても美しいと思う。

 

ところがこの波に乗じて、フランク・ステラという画家がキャンバスを切り裂いてしまう(シェイプト・キャンバス)!絵画というのはずっと昔から、キャンバスの上に描かれた平面のことだった。しかしどんどん切りこみは大胆になっていき、このあたりから絵画は絵画でなく、オブジェになっていく。

 

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フランク・ステラ「Empress of India」
  美しいと感じる方もいらっしゃるかもしれないが、美術館に観に行きたいだろうか…。

 

そうしてグリーンバーグが予想もしなかった「ミニマル・アート」の波がやってくる。彼らはキャンバスの側面を塗り、壁に立てかけたりもした。重要なのはキャンバス内ではなく、インスタレーションになっていく。かつて枠をこえ主題がない絵画に挑戦した時代、画家は構図や色彩の美しさを極め、独自の筆遣いに挑戦し、それぞれに美しさを追求してきた。しかし新しい時代の画家が、これこそが美だと色を塗っただけのモノを提示するとは、過去の挑戦に対して残念な結末ではないだろうか。すくなくとも私は単純な模様や色彩の並びよりも、人間が創意工夫を凝らしキャンバスの上に作りあげた作品の方が、ずっと尊く美しい美術だと思う。

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☝エルスワース・ケリー「赤・黄・青」

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☝カール・アンドレ 「10 x 10 Alstadt Copper Square」

  「10 x 10 Alstadt Copper Square」は、工場に金属板を発注して美術館に運んでもらい、並べるという過程でつくられるようだ。また、柵もないため踏んでしまう観客もいるが、作者はそれでいいとのこと。うーん。本当はジョン・マックラッケン「赤い板」(赤く塗られたキャンバスが壁に立てかけられている)に衝撃を受けたが、インターネットで画像をみつけることができなかった。

 

絵画がオブジェに転落していくさまはぞくぞくした。枠を超えることは必ずしも発展とは限らない。

 

 

「現代美術」もまた、インスタレーションが重視されていると思う。オブジェ化した絵画が美術館の壁からはがれて現実でモノとして主張するように、現代美術の作品もまた、現実にくいこんできている。授業では本物の死体を用いたウィトキンの作品や、やたら排泄物を使うアンドレアス・セラーノをならったが、何より衝撃を受け…憤りさえおぼえたのは、ギジェルモ・バルガス「何をよみとるかであなたが決まる」、桑島秀樹「THE LIFE」。前者は、当時ニカラグアで無断で倉庫に入り男性が番犬にかみ殺されるという事件による番犬の処分を巡って議論がわきおこっていたさなかの作品で、やせこけた野良犬を部屋につなぎ、餌を与えず衰弱していく様を見せた。後者は、大きく引き伸ばされた写真が3点飾ってあるのだが、それがミキサーに入れられた金魚がすりつぶされていく様子。部屋には魚が入った水槽と、何も入っていない水槽が置かれていて、壁には数匹金魚が入った袋がつるされている。観に来た人は、その数匹の金魚を持ち帰るか、どちらかの水槽にいれるか、えらばなくてはならない。…言いたいことはわかる。前者は社会ではこんなふうに犬が、いや人でさえ餓死していくのにお前たちはなんにもしないじゃないかと、後者は小さな命が簡単に大量に消費されてしまい、しかしその犠牲がなくては大きな命も失われてしまうが君たちどうすると言いたいんだろう。いや…だからドキュメンタリー映画撮れよ。デモや啓蒙運動をしろよ。それは美術と称してやることなのか。

 

私は、美術は人間の想像力と技術の賜物だと思う。なぜ伝統的な美術は私たちを否応なく惹きつけ感動させるのか。物語を知らなくても私はギリシャの彫刻やロマン主義絵画に圧倒されるし、黄金比なんて知らなくてもマネの構図に美を感じる。抽象絵画はよくわからないが、ポロックの実物を見たときは立ち止まりしげしげ眺めてしまった。なぜか。それはそれぞれの芸術家が自身の想像力を駆使し、自分の思う美をそのたぐいまれな技術をもって具現化させ、現実にあっても現実離れした世界をつくりあげているからだと思う。先述した「現代美術」はなんだ。フィクションの力はどこへいったんだ、技術はどこへいったんだ、本当の美術家なら現実の犬や魚の死をもってではなくて、あなたの想像力と技術をもって表現してほしい。そうでなければ私たちが現実で出会う周りの人の生死や悲惨なニュースだって立派な美術になってしまう。実際に起こることを超えて想像力が他人を動かすから、美術は美術なんだ!と、私なんかは思うのだけど、どうでしょ。

 

わたしたちはあしたをかえることができるか